マクガフィンには寿命がある——シリーズ映画が謎を持ちこたえられない理由
スティーヴン・マクフィーリーは、自分たちが作った映画の構造的矛盾をこう認めた。「最初からやり直せるなら、六つもマクガフィンは選ばなかっただろう」。アベンジャーズ/インフィニティ・ウォーの脚本家が『ニューヨーク・タイムズ』に語ったこの一言は、単なる後悔ではない。現代のフランチャイズ映画が抱える構造的な問いへの告白だ。
インフィニティ・ストーンはマクガフィンなのか。この問いから始まると、映画というシステムが謎をどのように持ち、どのように失うかという、より根本的な構造が見えてくる。
マクガフィンとは空の変数である

ヒッチコックの定義——実のところ何でもない
1939年、アルフレッド・ヒッチコックはコロンビア大学の講演で結論づけた。「マクガフィンとは実のところ何でもない」。この定義は後年も一貫している。1962年のフランソワ・トリュフォーとの対談(1966年刊行)でヒッチコックは、マクガフィンとはスクリーン上の登場人物が執着するが観客は気にしないものだと説明した。スパイ映画なら設計図でも秘密の文書でも何でもいい。中身ではなく、追いかける行為が物語を動かす。なお、マクガフィンという語そのものは英国の脚本家アンガス・マクフェイルが考案し、ヒッチコックが広めた。
マクガフィンが機能するのは、その空虚さゆえだ。中身が定義されていないからこそ、観客はそれぞれの欲望や恐怖を空白に代入する。プログラミングで言えば、マクガフィンは初期値を持たない変数だ。映画というプログラムが走る間、観客は各自の最も価値あるもの、最も失いたくないものを格納する。誰かにとっては富であり、別の誰かにとっては復讐であり、また別の誰かにとっては愛だ。
パルプ・フィクションのブリーフケース
クエンティン・タランティーノの『パルプ・フィクション』(1994年)に登場するブリーフケースは、その典型だ。開けると中から金色の光が溢れ、それを見た者は絶句する。しかし中身は最後まで説明されない。30年を超えてもブリーフケースの正体が議論され続けるのは、答えが存在しないからではなく、答えを与えることを拒んだからだ。提示された瞬間、それは変数ではなく定数になる。定数になったものは、もはやマクガフィンではない。
作品考察『パルプ・フィクション』考察——インディ映画の扉を開いた30年前の一本単独映画でマクガフィンが機能する理由

2時間という密閉空間
マクガフィンは時間制限付きの触媒だ。映画館の暗闇の中、観客は物語の論理に没入する。あの箱の中に何があるのかという問いは次のシーンへの牽引力になり、その問いが解消されなくても映画は終わる。パルプ・フィクションのブリーフケースは説明されないまま幕が下り、観客はそれで満足する。2時間という密閉空間の中では、謎は答えを持たなくても機能する。
トリュフォーとの対話の中でヒッチコックは、観客が本当に見たいのはオブジェクトそのものではなく、それをめぐる人間の行動と緊張だと述べた。何を手に入れるかではなく、手に入れられるかどうか。そこに観客の目は向く。オブジェクトへの関心は緊張を生む出発点であり、それ自体が目的ではない。
観客が魔法から醒めない条件
単独映画が有利なのは、観客が正気を取り戻す前に終わるからだ。映画が走っている間、スクリーンの論理は現実の論理を上書きする。あのオブジェクトがなぜそれほど重要なのかという批評的な目線は、日常に戻って初めて起動する。映画館の外に出る前にエンドロールが流れれば、変数はその空虚さを保ったまま記憶に残る。アンドールの制作者トニー・ギルロイはMCUへの批判の中でこう指摘した。「テセラクトを手に入れることしかやっていない。それがあの映画群が失敗する理由だ」。ギルロイが批判したのは、謎の不在ではなく、追いかける意味の空洞化だった。
シリーズ化が謎を殺すまで

観客が日常に戻るとき
続編が存在するとき、観客は映画館の外に出る時間を与えられる。次作の公開まで数ヶ月から数年が過ぎる。その間に問いは熟成するのではなく、批評的な目線にさらされる。そもそもあれは何だったのか、なぜ全員があれほど必死だったのか。映画の内側にいる間は疑問として現れなかった問いが、外に出た瞬間から動き始める。
この状態変化がシリーズのマクガフィンを侵食する。変数が未定義のまま複数の作品をまたぐとき、観客の問いはこの謎は解けるのかから、この謎には答えがあるのかへと変質する。後者の問いが浮上した時点で、制作者への信頼は崩れている。
謎の持続という構造的矛盾
シリーズ物でマクガフィンを維持しようとすると、二つの相反する要求が発生する。一方で、謎は未定義のまま観客を引きつけ続けなければならない。他方で、複数の作品をまたぐ整合性を保つには、そのオブジェクトが何であるかを定義しなければならない。整合性は定義を必要とし、定義は変数を定数に変える。定数化した瞬間、マクガフィンとしての機能は崩壊する。シリーズ化はマクガフィンにとって定数化への圧力だ。
三つの応答と三つの運命

維持しようとした者の末路——ツイン・ピークスとLOST
デヴィッド・リンチはツイン・ピークスの共同制作者マーク・フロストとともに、ローラ・パーマーの殺人の謎をシリーズの最終盤まで維持するつもりだったと語った。しかし放送局ABCの圧力に屈し、シーズン2中盤の第14話で犯人が明かされた。視聴率はその後低下を続け、番組は打ち切られた。リンチはのちにこの判断を「金の卵を産むガチョウを殺した」と表現している。謎が答えを得た瞬間、その謎が作り出していた緊張は消えた。
LOSTに見られるのは、さらに深刻な問題だ。J・J・エイブラムスが考案したミステリー・ボックスとは、中身の決まっていない謎の箱を物語の中心に置く手法を指す。マクガフィンとは似て非なるものだ。マクガフィンは制作者が意図的に隠す。ミステリー・ボックスは制作者自身も答えを持っていない。エイブラムスはシーズン1の途中でLOSTを離れており、ダモン・リンデロフとカールトン・キューズがその後のシリーズを主導した。しかしミステリー・ボックスという設計思想はシリーズ全体に貫通し、後半シーズンで収拾を失った原因となったと考えられる。謎の維持を試みて失敗するのと、謎の答えを持たないまま引っ張るのは、結末として同じ崩壊に至る。
定数化という解法——MCUが選んだ道
マクフィーリーの告白は、MCUが本来マクガフィンの論理を採用したかったことを示唆している。しかし23本以上にわたる映画で複数の監督と脚本家が同じオブジェクトを扱うには、変数を定数に変えるしかなかった。スペース・ストーンは青い、テレポートができる、歴史はこうだ。この定義を変えることは許されない。ひとつの監督が変数に別の値を代入すれば、フランチャイズという巨大なシステムは矛盾を起こす。
変数が定数になると、映画の構造も変質する。謎を追う物語はゲームのルールを把握した上での攻略に変わる。どのストーンをいつ誰が持つかというトラッキングが物語の中心になり、文学的な緊張ではなくゲームのクリア条件としてオブジェクトが機能し始める。
インディ・ジョーンズが発見した唯一の解法
インディ・ジョーンズ・シリーズは別の解を持っていた。毎回マクガフィンを完全に入れ替えること——失われたアーク、サンカラ・ストーン、聖杯、クリスタル・スカル。各作品のオブジェクトは前作と無関係に登場し、その作品内で完結する。シリーズを繋いでいるのはオブジェクトではなく、インディアナ・ジョーンズというキャラクターだ。変数は毎回初期化され、観客は毎回新鮮な代入の余地を与えられる。この構造はルーカスとスピルバーグが子供時代に観た1930〜40年代の連続活劇(ムービー・シリアル)へのオマージュであり、そこでも謎は引き継がれず毎回リセットされていた。インディはその伝統的な解法を現代に蘇らせた形だ。
コラム『ジョーズ』解説——ブロックバスターを生み、サメを殺した映画の50年しかしこの解法にも限界がある。ジョージ・ルーカスはシリーズを三部作で止めた理由の一つとして、良いマクガフィンが見つからなかったことを挙げている。結果的に制作された第四作のクリスタル・スカルは批判を集めた。変数の毎回リセットは機能するが、新鮮な変数を生み出し続けることそのものが、制作者に創造的な消耗を強いる。
マクガフィンは単独映画の外では生きられない

ヒッチコックの宇宙では、人間がモノを重要にする。マーベルの宇宙では、モノが人間を動かす。この一行の差が、マクガフィンとインフィニティ・ストーンの本質的な違いだ。
1939年にヒッチコックが定義した通り、マクガフィンとは実のところ何でもない。中身が空だからこそ、それを命がけで守るキャラクターの姿が観客の感情に火をつける。価値はオブジェクト自体にあるのではなく、人間の欲望と恐怖がそこへ代入されることで生まれる。この仕組みは2時間という閉じた時間の中でのみ安全に機能する。観客が魔法から醒める前に、物語が終わるからだ。
シリーズ化はその前提を壊す。その密閉空間が開いた瞬間、変数は定義を求められる。三つの応答が存在する。謎を維持して崩壊するか(ツイン・ピークス・LOSTの轍)、定数化してゲームにするか(MCUの選択)、毎回変数を入れ替えるか(インディ・ジョーンズの解法)。どの道も完全ではない。維持は崩壊を招き、定数化は文学的緊張を殺し、入れ替えは制作者を消耗させる。
マクガフィンとは、映画という完結した宿主の内部でしか生きられない生き物だ。その宿主が連続すれば、謎は定義を要求され、定義された謎はマクガフィンではなくなる。インフィニティ・ストーンがマクガフィンではなかったのではない。マクガフィンであり続けることができなかった——それがフランチャイズ映画という形式の構造的な限界だ。
レイダース/失われたアーク《聖櫃》
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