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凄惨な事件が報じられるたびに、決まって同じ議論が浮かびあがる。親の育て方に問題があったのではないかという問いだ。犯罪報道の文脈では環境が人間を形作るという前提が強く働き、遺伝より育ちに答えを求める傾向がある。しかし実際のところ、環境が人間をどこまで作るかを証明することは難しい。

ヨルゴス・ランティモスの『哀れなるものたち』(2023年)は、その証明を試みた映画だ。白紙の脳を持って生まれた存在が旅を経て自立していく構造は、生まれか育ちかという問いへの壮大な実験に見える。しかし庭園の最後のシーンまで見届けたとき、実験の答えは想定より複雑な場所にある。四つん這いで草を食む元将軍の姿とともに幕を閉じるあの場面は、なぜ美しく見えるのか。

三つの改変、三つのトーン

哀れなるものたち
© 哀れなるものたち — TMDB

『哀れなるものたち』には、構造的に同一の行為が三度登場する。いずれも当事者の同意なく、他者の脳や身体を改変する行為だ。しかしカメラはその三度を、まったく異なるトーンで映す。

恐怖として提示される、一度目

ゴドウィン・バクスターの父親も天才的な解剖学者だった。息子の体を実験台として使い続け、その痕跡がゴドウィンの傷だらけの顔と改造された消化器官に残っている。映画はこの行為を直接映さず、結果だけを提示する。トーンは暗く、不穏だ。

神話として位置づけられる、二度目

映画の出発点そのものだ。橋から身を投げた妊婦ヴィクトリアの頭蓋に、胎児の脳を移植する。モノクロームの画面、精緻な美術、ウィレム・デフォーの静謐な演技。この場面は好奇心と愛情の始まりとして提示される。ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞した本作の出発点であり、映画はここに神話的な重みを与える。ゴドウィンはベラの成長記録をつぶさにメモし続ける。彼女がカエルを解剖する場面では、命を科学的な対象として扱うことへの躊躇が最初から存在しないことが示される。それはゴドウィンが意図的に植えつけた世界観だ。

解放として演出される、三度目

ラストシーンの直前だ。ベラはアルフィーを拘束し、脳をヤギのものと入れ替える。陽光の庭、穏やかな音楽、友人たちとのお茶。映画はこれを、物語の完成として演出する。三つの行為は構造的に同一だが、映画が与えるトーンは恐怖、神話、解放と変化する。この変化を生んでいるものが、本作の最も精巧な仕掛けだ。

映画が2時間かけてインストールするもの

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© 哀れなるものたち — TMDB

ベラの成長物語を追ううちに、観客はある判断のルールを自然と吸収していく。意図が行為の性格を決定するというルールだ。

断罪される悪意、許容される愛

悪意による支配は暴力だ。ダンカンはベラを所有物として扱い、アルフィーはヴィクトリアを虐待した。映画はこれを明確に断罪する。一方、愛による干渉は許容される。ゴドウィンがベラに外の世界への旅を許したのも、マックスが彼女の変容を受け入れたのも、愛ゆえだ。この対立をリスボン、アレクサンドリア、パリと旅するベラの目を通じて体験することで、観客はその判断基準を自分のものとして受け入れていく。

そのルールが完成するとき

この座標系が完全に機能した状態でラストシーンを迎えるとき、アルフィーのヤギ化は正当な意図による改変として読める。アルフィーは悪人だった。ベラは正当な理由を持つ。解放だという論理が、観客の内側で自動的に作動する。映画はその論理を明示しない。2時間かけて観客の中に組み上げてきたからだ。

二つの父が作ったもの

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ベラはゴドウィンの実の娘ではない。しかし別の遺伝的な親を持っている。

生みの親から受け取った遺伝

ベラの体はヴィクトリアのものだが、頭蓋に収まっている脳はヴィクトリアの胎内にいた胎児のものだ。遺伝的な父親はアルフィー・ブレシントン将軍だ。妻を虐待し、ベラに割礼を施そうとし、他者を支配することを当然とした人物である。映画はゴドウィンとの遺伝的繋がりがゼロだというベラの出自を強調するが、別の遺伝的繋がりを消しているわけではない。ベラの脳はアルフィーの血を引いている。

冒頭の育て方議論に重ねるなら、ベラはアルフィーの遺伝子を持って生まれた。支配欲、残酷さ、他者の人格を物として扱う傾向——それがアルフィーという人間の本性だ。環境さえ変えれば、その遺伝子の行き先も変わるのか。映画はその問いを走らせる。

育ての親が植えつけた論理

ゴドウィンが用意した環境の中核には、一つの前提がある。肉体と脳は科学によって変更可能な対象だという前提だ。ベラはこの前提を、何の歪みもなく吸収する。性行為を初めて体験したとき、彼女はそれを「激しいジャンプ」と名付けた。既存の文化的枠組みを一切持たず、感覚を自分の言葉で言語化した結果だ。命も性も暴力も、この白紙の認知を通じてはじめて意味を持つ。ゴドウィンの科学的な世界観が、そのまま彼女の論理の土台になった。

融合がラストシーンを生む

アルフィーのヤギ化には、二つの要素が同時に必要だった。支配への意志と、改変の技術だ。

遺伝的にアルフィーの子であるベラには、他者を完全に無力化したいという欲望が潜在していたと読み解く余地がある。単に逃げる、告発する、または排除するという選択肢がある中で、ベラが選んだのは相手の人格そのものを消去して手元に置くことだった。その欲望の形は、アルフィーがヴィクトリアに行おうとした割礼による従順化と、構造的に同じだ。

そしてゴドウィンの環境がなければ、その欲望は実行できなかった。脳を別の脳と入れ替える技術は、ゴドウィンの屋敷で身につけたものだ。監督ランティモスは「自由の力は、人々を時に怖がらせる」と語った。ベラの自由の怖さは、アルフィーから引き継いだ欲望とゴドウィンから学んだ技術が、一人の人間の中で融合した結果だと考えられる。

庭園のラストシーンでベラは、ゴドウィンが作ったもう一人の実験体であるフェリシティに給仕を命じている。かつてベラは、フェリシティを生み出したゴドウィンを怪物と呼んだ。その彼女が今、フェリシティを使用人として扱っている。告発がそのまま自己描写になる瞬間だ。

原作が開けたまま残したもの

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© 哀れなるものたち — TMDB

ここで、アラスター・グレイの原作小説(1992年)との比較が意味を持つ。原作は映画とまったく異なる構造を持っている。

三層構造が生む根本的な問い

小説は三層で構成される。「編集者グレイ」による序文、マックス(マクキャンドレス)による自伝的手記、そしてベラ・バクスター自身による手紙だ。最後の手紙でベラは「マクキャンドレスの自伝は全くの捏造だ」と主張する。読者はここで選択を迫られる。マクキャンドレスが語るベラの解放の物語を信じるのか、それともベラ自身の言葉を信じるのか。どちらを選んでも、もう一方が崩れる。原作はベラの自由は本物か、それとも男たちが作り上げたフィクションかという問いを、最後まで開いたままにする。

ランティモスが選んだ答え

ランティモスはこの構造を取り除いた。「映画は彼女の旅、彼女の視点だけについてのものだ」と本人が語るように、映画版のベラの経験は一貫して真実として提示される。この選択によって物語は明快になり、感情的な強度が増した。ただし代わりに消えたものがある。語り手は信頼できるのか、という原作の根本的な問いだ。グレイはベラの解放を語る文法そのものが、男性の視点によって構築されていないかという疑問を構造として埋め込んだ。ランティモスはその疑問に否と答え、前に進む。問いが消えた空間で、カメラは迷わず美しさを選ぶ。

庭園が美しく見える理由

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© 哀れなるものたち — TMDB

以上の三つが重なったとき、あの庭園のシーンは完成する。観客に内面化された意図の文法、二つの父から形成されたベラの行為の論理、そして原作の問いを閉じた映画的な選択——この三つだ。

アルフィーは草を食んでいる。それを見ながらベラは穏やかにお茶を飲む。アカデミー賞主演女優賞を受賞したエマ・ストーンの表情は、満足と静けさに満ちている。カメラは彼女の側から世界を映す。陽光は温かく、色彩は豊かだ。映画はそのすべての視覚的言語を用いて、これが正義の形だと告げる。

観客がカタルシスを覚えるのは、映画が間違っているからではない。映画が正しく機能しているからだ。2時間かけて構築した道徳的文法を、最後の場面で完璧に起動させている。ゴドウィンの行為が神話として記憶されるのと同じ構造で、ベラの行為は解放として記憶される。

しかしあの庭園に立つベラは、アルフィーの血を引き、ゴドウィンの科学を継いでいる。生みの親への欲望と育ての親の技術が、あの一つの行為の中で合流した。育て方の問題か、生まれつきの問題か。冒頭の問いへの映画の答えは、どちらでもあり、どちらでもない。融合した結果として、庭園は静かに美しい。

哀れなるものたち

哀れなるものたち

Poor Things

  • 監督ヨルゴス・ランティモス
  • 公開2023年
  • 上映時間141分

天才外科医によってよみがえった若き女性ベラ・バクスターの驚くべき進化を描く。未知なる世界を知るため、ベラは大陸横断の冒険に出る。時代の偏見から解き放たれ、ベラは平等と自由のために立ち上がる。

2026.06.03 取得 · 変更の場合あり

この記事を書いた人

FISHBONE 編集部

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